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バンドマンから保険営業マンに変身 その1

私は昭和59年12月に私のライブによく来ていたお客さんの松宮さんの勧めで日本生命に営業として入社しました。 さんざん迷ったあげくに入社の決意をしたのですが、その決断のキーワードが「成績計上の契約高を毎月欠かさず1億円やっていけば一年後には給料を毎月100万円づつもらえるよ」でした。その数字がどれだけ大変なものなのかは知るすべも無く単純な性格の私はまるでもう出来たかのような気持ちになり「やるぞ!」と決めて入社の意志を固めました。 そして研修を受ける事になったのですが、ここでまた目からウロコの落ちる日々が続いたのです。
見るもの聞くものがすべて新鮮で「ハーッ!世の中こうなっているんだ!凄い!」と、それまでは音符と楽器しか見た事の無かった私は、すべてに感動し毎日小型のテープレコーダーを持参し一番前の席に座り先生の話を一言も聞き逃さないように録音しながら目を大きく開け聞き入りました。終わってからも録音した講義の内容を聞き直し賢明に勉強し吸収しました。
この頃は私の子供も未だ二人とも小学生で、この子達のためにも頑張らなきゃと思い、夜はバンドの仕事で夜中の3時頃まで働き、3時間程の睡眠でまた朝の会社出勤と、今では考えられないようなハードな日々をひたすら目標に向かって働きました。
おかげで努力のかいあって一年間毎月の目標をクリアし夢の給料を受取ったのです。
バンド時代では考えられないようなお金が封筒に入ってきた時には幻ではないかと思い、思わずほっぺたをつねったものです。
毎月25日の給料日に、ちゃんと遅れずにやった分のギャラがもらえるこの仕事は何と素晴らしいものか、それまでには考えられなかった事だったのです。
いつも遅れたり逃げられたりは日常茶飯事でしたから。

こうして私は次第に周りから期待される人間になって行ったのです。
                                       つづく

# by nanbunaoto | 2007-07-10 12:54 | Comments(0)

ボランティア活動

昨日私の所属する「東京原宿ロータリークラブ」の毎年恒例の「障害者水泳大会」の運営のお手伝いに、十条台にある「東京都障害者総合スポーツセンター」の室内プールに行って来ました。
午前9時45分に開会式があり約600人の障害を持った方々が順番に競技をスタートさせました。 私は選手控えの体育館からプールまで安全に選手達を誘導する係りです。
小学生の低学年から70歳台の熟年に至るまで皆さんとても張り切って競技に参加をされ、健常者である私がビックリするほど頑張って大きな感動を与えてくれました。

小学校一年生の翔太君は浮助具をつけての参加でしたが、途中で何度も溺れそうになっても歯を食いしばり必死になって25メートルを見事泳ぎきりました。
そして周りにいた父兄やボランティアの人達の大きな拍手と声援に祝福され「ぼく頑張ったよ!」「やったよね!」と何度も叫んでいました。
この光景を見て私はどうしても涙をこらえる事が出来ませんでした。
「自分だったらあんなに頑張れるだろうか」と考えると、今の自分は「まだまだ甘いな!もっと頑張らなきゃ」と自分を叱咤激励した次第です。

そして夕方の5時半過ぎに大会は終了しました。
この日は沢山の感動をいただく事が出来ました。

本当に心から有難う!

# by nanbunaoto | 2007-07-09 15:22 | Comments(0)

タイミング

タイミングを外すとどんなに大きな力を加えても効果はありません。
このことはこの世の中のすべてのことに当てはまります。
例えばゴルフのショットや野球のバッティングやテニスにしても、ジャストミート(真芯)を捉え絶好のタイミングでヒットしなければボール力は生まれません。遠くに飛びません。
これとまったく同じような事が音楽の演奏にも言えます。
素晴らしい演奏をするには、音の大きさではなく素晴らしいタイミングが必要なのです。
ジャストミートし出した音はそれ自体にパワーがあり聴く人の心を揺さぶります。
それとは逆にタイミングを外して出してしまった音は聴き手に不快感を与えます。
名人と言われる人の演奏は、出す音のすべてがジャストミートし真芯を捕らえた音なので無駄な音は無く、小さな音(ピアニシモ)も大きな音(フォルテシモ)も演奏者の意のままに聴衆に感動を与える事が出来るのです。
これが出来るようになるには、正しい練習の仕方と、それを身体に身に着けるまでの繰り返しの
練習(稽古)が必要なのです。
気付くーわかるー出来るー常に出来る  ここまで来るには忍耐が必要です。
でも本当に好きであればその過程は楽しみに変わります。

私がギターを通じて学んだ一例でした。 

# by nanbunaoto | 2007-07-06 12:44 | Comments(0)

JAZZと私 第三話

あの頃の日本のJAZZ界では、ギターリストは澤田俊吾さん杉本清さん増尾好秋さんなどが有名で第一線で活躍していました。
私は早く仲間入りをしたくて毎日必死でした。
そんなところに中川淳さんという当時日本のジャズトロンボーンではベスト3に入る方から声がかかり私は嬉しくて直ぐに中川さんのバンドに入ったのです。また中川さんのお兄さんの中川武さんもまた有名なクラリネット奏者で一緒に活動をしていましたので私は本当に嬉しくてたまりませんでした。
そして私はこのお二人に音楽のみならず人生の大切な生き方を多く学んだのです。
当時はキャバレーやナイトクラブが全盛の頃でミュージシャンは生活の為に専属バンドとして出演しているのがほとんどでした。
またカラオケが未だ無かった時代なので必ずそういう飲み屋さんにはバンドや弾き語りが入っていましたのでバンドマンもピンからキリまで本当にたくさんいた時代です。
私は、中川さんの教えを忠実に守りJAZZにひたむきに取り組みました。
時にはミスをするとステージ上でいきなり蹴飛ばされることも有りました。
音楽は「音を楽しむ」と書きますが、あの頃は楽しんでいる余裕など無く、緊張のあまりかえって腕や指先が固まってしまうという状況にてのハラハラのステージでした。
でもたまにいいプレイをすると誉められ、そのときの気分は最高だったものです。
私は良い指導者のもとでメキメキと腕を上げていきました。

# by nanbunaoto | 2007-07-05 12:52 | Comments(0)

JAZZと私 第二話

そして私は親の猛反対を押し切り、茶木(楽器メーカー)のギターを一本抱え単身で東京に向かったのです。 この頃は五木寛之さんの書いた「青年は荒野をめざす」を読んで主人公のジュン少年になりきっていたのでした。
親も心配し、とりあえず私を尚美音楽学院に入学させることで少しは安心したようですが。
上京後は毎日音楽学校に通いながらあるバイトをしピアノを購入、三畳間の福井荘に無理やり押し込みピアノの下で毎晩寝ていました。
母は心配をし福井から私の様子を見に何度も来てくれましたが・・・、本当に今考えてみるとあの頃は何も恐いものが無かったのですねー! 若さって素晴らしい!
私は無我夢中でJAZZギターを練習しました。一日8時間以上はギターを弾いていました。
そして途中からANジャズスクールに通うようになりポンちゃんこと鈴木氏に本格的なジャズギターを教わるようになったのです。鈴木先生のギターは本当に素晴らしくあの世界的に有名なジムホールも絶賛するほどのギターリストであり私は大きな影響を受けました。
19歳の頃テナーサックスの植松孝夫氏とも共演をしました。
そしてある時横浜のバンドホテルにある「シェルルーム」と言う当時横浜では有名なナイトクラブにトラ(代役)で出演することになったのです。
そしてプロのステージに立ち最初の洗礼を受けることになったのです。
佐藤さんと言うテナーサックスのバンドリーダーから譜面を渡され一曲が始まりました。
しかし、何となくリズムが合わなくタイミングが取れないのです。
もたもたとしているうちに一回目のステージが終わり控え室に帰るや否や、「YOUはちょっとリズム感が違うねー!指だけ早く動かしても駄目なんだよ!」と言われ返す言葉も無く譜面をじっと見つめるだけでした。当時のナイトクラブではあらゆる曲を演奏しなければなりませんでした。
ラテン・ジャズ・歌謡曲・ポップスとお客さんのリクエストに瞬時に応えなければなかったのです。
それからと言うもの私は毎日いびられながら必死で曲を覚える努力をしたものです。
そして2ヵ月ほどたちようやく慣れた頃、私は別なバンドから添いがありこのバンドを去ったのです。
                                                 つづく

# by nanbunaoto | 2007-07-04 20:37 | Comments(0)