母さんの記」誕生エピソード その一
「母さんの記」の歌はライブでとても好評なオリジナル曲の一つです。
この歌の誕生エピソードを今日から連載いたします。
私は太平洋戦争の終戦後、まだ5年しか経っていない昭和25年9月7日に福井駅から歩いて5分程の手寄町というところで父清二母清子bのあいだに次男として生まれました。
また、当時は祖父の清松おじいちゃんと後妻の花子おばあちゃんがいましたがまもなく祖父は脳溢血によりこの世を去りました。とても頑固ですが優しいおじいちゃんでした。
私の生まれた町は昔「駅裏」といわれたところで、戦争で全てが焼け野原になった為、私の家も周りの家も応急で立てたバラックに近い家が立ち並んでいる貧しそうな下町でした。
父母は何とか早くこの家を建て直したい一心で夫婦共稼ぎし、休みの日も無く汗を流し働いていたのです。
母は小学校しか出てはおりませんでしたが、とても頭が良く向学心に燃えた努力家で独学で資格を取り病院の看護婦から途中で小学校や中学校の養護教諭に転職しました。
ところが母は生まれつき身体が弱く、若い頃に生死をさまよう大病をしており常にどこか具合が悪くしょっちゅう入退院を繰り返しておりました。
その為、家では母と一緒に夜添い寝したり、遊んでもらうことはあまりありませんでした。
私はそんな母が入院している病院に見舞いに(遊びに)行き、ベッドに横たわるは母に甘えていたものです。
この続きはまた明日。
サヨナラ!サヨナラ!サヨナラ!
この歌の誕生エピソードを今日から連載いたします。
私は太平洋戦争の終戦後、まだ5年しか経っていない昭和25年9月7日に福井駅から歩いて5分程の手寄町というところで父清二母清子bのあいだに次男として生まれました。
また、当時は祖父の清松おじいちゃんと後妻の花子おばあちゃんがいましたがまもなく祖父は脳溢血によりこの世を去りました。とても頑固ですが優しいおじいちゃんでした。
私の生まれた町は昔「駅裏」といわれたところで、戦争で全てが焼け野原になった為、私の家も周りの家も応急で立てたバラックに近い家が立ち並んでいる貧しそうな下町でした。
父母は何とか早くこの家を建て直したい一心で夫婦共稼ぎし、休みの日も無く汗を流し働いていたのです。
母は小学校しか出てはおりませんでしたが、とても頭が良く向学心に燃えた努力家で独学で資格を取り病院の看護婦から途中で小学校や中学校の養護教諭に転職しました。
ところが母は生まれつき身体が弱く、若い頃に生死をさまよう大病をしており常にどこか具合が悪くしょっちゅう入退院を繰り返しておりました。
その為、家では母と一緒に夜添い寝したり、遊んでもらうことはあまりありませんでした。
私はそんな母が入院している病院に見舞いに(遊びに)行き、ベッドに横たわるは母に甘えていたものです。
この続きはまた明日。
サヨナラ!サヨナラ!サヨナラ!
by nanbunaoto | 2009-04-21 12:03 | Comments(0)